本市の母体である宜野湾間切は、1671(康煕10)年に浦添間切から我如古、宜野湾、神山、嘉数、謝名具志川(大山)、大謝名、宇地泊、喜友名、新城、伊佐、の10ヶ村を編入、中城間切から野嵩、普天間、そして北谷間切から安仁屋をそれぞれ編入し、そのうえさらに真志喜を新設し、14ヶ村をもって設立されました。
1879(明治12)年の廃藩置県後、宜野湾には、中頭役所が字宜野湾に置かれ、また県立農事試験場が普天間に設立されました。さらに中頭郡教育部会がたびたび宜野湾で開かれるなど、本島中部の政治、経済、教育の中心地として活気を呈していました。
第二次世界大戦においては、本市も壊滅的な戦災を被りましたが、野嵩地域が焼失を免れ、周辺地域の民間人の収容所となり、宜野湾の戦後復興の中心地となりました。その一方で、戦中から戦後にかけて市域の主要な部分が米軍基地として接収され、基地の町としての性格を強めました。また普天間を中心に都市化が進展し、1962(昭和37)年7月1日に市制が施行され、新生「宜野湾市」が誕生しました。
市制施行後もなお、米軍基地が中央部に位置する為、市街地は国、県道沿いにドーナツ状に発展し、特異な形状を示しています。近年、那覇市の外延的な拡大に伴い、市街地化が進展しつつあります。更に沖縄国際大学、琉球大学が立地し、沖縄コンベンションセンターが整備されるなど、県内の高次都市機能の一部を担う重要な地域となりつつあります。
将来都市像
市民が主役の「ねたて」の都市・ぎのわん
※「ねたて」とは、古謡「おもろそうし」に表された言葉で、古琉球の時代から「物事の根元」「共同体の中心」 「まつりごとの中心地」を意味しています。
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